2017.9.13

WorMo’的ワークスタイル

「女に何ができる?」と言われた時代に

女性IT起業家ヒストリーⅠ「仕事と“天職”」

80年代に群馬県で女性SEとして起業し、現在ソフトウェアやシステムの開発のほか、ネットワークやセキュリティー設計・構築までを手がける株式会社OPENERで代表取締役会長を務める六本木佳代子さんへのロングインタビュー。4人の子どもを育てながら30年以上第一線で働き続けてきた彼女の半生を「仕事と“天職”」「子育てとの両立」「リーダー論」「ワーキングマザーへのメッセージ」というテーマに分けて4回シリーズでお届け。第1回は、ITという言葉もなかった時代に、突然の進路転換で出合った“プログラミング”が“天職”といえるまでになった経緯を中心に、当時の働く女性に対する価値観や男性と対等に働く難しさについてお聞きした。

ITとの偶然の出合いが
「転職への道」の第一歩に
 「高校時代は建築家になりたかったんです。そもそも私が育った時代には、インターネットもITという言葉も存在しなかったぐらい。情報処理という概念さえ知りませんでした」
 六本木佳代子さんは、将来の夢を思い描いた中学・高校時代を振り返って語る。ITビジネスが爆発的に伸び始める時代を先取りし、1986年に群馬県伊勢崎市にシステム開発を手がける有限会社ジー・エム・ケー(その後株式会社に)を設立した六本木さん。さらに2002年には、優秀な外国人を積極的に雇用し、JAVA言語に特化して最先端のシステム構築をめざす株式会社ジニアスエンタープライジングを東京・お台場に設立。2011年には、ジー・エム・ケーからシステムソリューション部門を分割して伊勢崎市に株式会社OPENERを設立した。新卒女性は2年ほど働いて結婚退職するのが当たり前だった時代にたった一人で起業し、30年以上も経営者として活躍してきた経歴にも驚かされる。
 現在取締役会長を務めるOPENERは、ソフトウェア・システム開発のほか、ネットワーク・セキュリティ設計なども手がけ、地元の優良企業として地域の信頼を集めている。また起業以前にも、優秀なSEとしてシステム開発などを手がけてきた。それだけに、「ITに興味がなかった」という言葉は意外に感じられる。建築からITへ。何が六本木さんの進路を大きく変えたのだろうか?
 一つのきっかけになったのは、高校3年生の6月にお父様を亡くしたことだった。とても仲のいいご夫婦で、お母様はショックから半年間も寝込んでしまったという。そして妹はまだ小学4年生。17歳だった六本木さんは、人一倍の責任感から「自分が家族を守らなければ」と思い込んだそうだ。掃除や洗濯はもちろん、朝は妹の髪を三つ編みにして、お母様の昼食を準備してから登校。そして帰りはスーパーで食材を買い、家に着いたら洗濯物を取り込んで……と、1人で家事を引き受け、家族を支える毎日が始まった。当時を振り返り、「父が亡くなる前は、のんびりした性格だったといわれますが、父が亡くなったことでがらっと意識が変わったので、それ以前のことはまったく覚えていないんですよね」
当然ながら受験勉強はできるはずもなく、志望大への合格は果たせなかった。
 これからのことを進路指導の先生に相談に行くと、「2つの大学で情報処理工学科という新設学科が2次募集をしているけど、興味あるか? コンピュータのことを勉強できるらしいぞ。新しい分野の勉強をするのも、お前には合ってるんじゃないか?」と声をかけてくれた。コンピュータに関心があったわけではないが、それでも直感的に「面白そう!」とワクワクし、受験を即決したという六本木さん。先生の勧めに応じて2校の試験を受け、うち1校に入学した。それがITとの長いつき合いの始まりになった。 「人には直感で自分の方向を見定められる瞬間がある、ということでしょうか。勉強を始めたら、取り憑かれるほど楽しかったのは確かです。自分の書いたコマンドを重ねていくと、ディスプレイ上に指示したとおりの内容が出てきて、『なんてすごいんだろう』と感動しました」
 しかも情報処理工学科の担当教授は、情報処理工学という概念を日本に持ち込んだ第一人者。学校には、国内に当時3台しかなかったスーパーコンピュータがあり、学生が自由に利用できた。ぐんぐん知識とスキルを身につけていく中で、「この業界で生きていこう。やりたいことはこれしかない!」と決意するまでに時間はかからなかった。
女性と男性で給与や働き方に
大きな差があって当然の時代だった
 短大卒業後は、国内有数の自動車メーカーの電算室にSEとして入社した。都内の大手ソリューション会社に就職が決まっていたのだが、お母様に「帰ってきてほしい」と言われ、急きょ地元で就職活動をして得た職場だった。女性のSE採用は第1号ということで、社内報でも大きく取り上げられた。それだけに一般職の女性社員たちからは、ロッカーから靴を隠されたり上着を捨てられたりと、かなりの意地悪をされたそうだ。しかし六本木さんは、そんな状況さえ笑い飛ばした。ITの知識を吸収するのが面白くてたまらなかったのだ。
 ただし、理不尽だと感じたことはあった。女性社員は2年ほど事務職的な働き方をしたら結婚退職するのが当たり前、という雰囲気が社内にあり、中堅の男性社員からはしばしば「いいよ、女の子は仕事なんてしなくて」といわれたという。女性というだけで残業も認められなかった。時代は1980年代前半。男女雇用機会均等法が施行前だったこともあり、この会社のような男女格差は多くの企業にみられた。
 一番悔しかったのは、給与の格差だ。同期入社の男性に比べて、新卒入社初の月給は、当時の物価にして3万円ほどの差があったそうだ。仕事の正確さとスピードでは六本木さんの方がはるかに優っていたのに、である。
「お給料というとお金の問題と受け取られがちですが、給与額はいってしまえば会社が自分に下す評価そのもの。女性というだけで一段低い評価なのはどうしても納得がいかなくて、入社1か月にして『この会社に自分の未来はない』と思いました。就職2年目で結婚し、ほどなく長女が生まれたので、いい節目だと思って産休明けに退職しました」
 だからといって、働くことをやめるつもりはつもりはまったくなかった。当時の思いを、六本木さんは次のように話す。
「今思うと、務めていた会社には当時から育休制度が整っているくらい先進的で、女性が働き続ける環境としては決して悪くなかった。ただ、いろいろな面で男性との格差を感じながら仕事を続ける気がせず、まずはフリーランスのSEとして再出発することにしました。今でいうSOHOの走りですね。平等に働ける環境がないなら自分でつくればいいと思ったわけです。この『なければつくればいい』という考え方は、このときから自分の基本姿勢になりました」
仕事で成果を出し続けたら
女性蔑視から自由になれた
 前職で「女性は残業ができない」という制約があったため、作業を効率的に進める習慣はすでについていたという六本木さん。加えて産休中も勉強を欠かさず、IT言語などの知識を蓄えていた。独立したばかりの頃は「女に何ができる」と取引先で言われることもあったが、次第に「仕事が速く、精度が高い女性SEがいる」と地元のIT企業で評判が立ち始めた。
 IT業界が伸び盛りで技術者が圧倒的に不足していたという状況もあり、六本木さんは加速度的に忙しくなっていった。こどもが寝ついてから集中的に作業し、発注先に詰めなければならないときは母や義父にこどもをみてもらいながら仕事を続けた。こどもを預けられないときはおんぶしたままクライアントのところへ出かけたりすることもあった。夜中に、こどもが寝ている横でプログラミングをしたり、バグ修正をしたり……そんなことが日常茶飯事だった。体力的にはきつかったけれど、コンピュータと向き合う時間は楽しくてたまらなかったという。
「それに、社内のスタッフに任せれば費用を抑えられるところを、私のような外部スタッフにご依頼いただくわけですから、現場で一番できる人間になろう、という思いも常にありました。だからこそ、確実に納期より早く仕上げていましたし、難しい注文にも決してNOと言わず、猛勉強をして結果を出しました。すると次も必ず声をかけてもらえる。こうなるともう、『女性だから』というフィルターで私を見る人はいません。狭いプールを抜け出して、広い海で泳いでいるような自由を感じました」
 次の転機は1986年。会社組織にしておけばもっと大きな仕事を受けられるかもしれない、と考えて有限会社ジー・エム・ケーをつくり、法人登録をしたばかりの頃だった。現場でよく顔を合わせていたSEの若手男性3人が「六本木さんと一緒に働きたい」と訪ねてきたのだ。六本木さんの経営者人生の始まりだった。
 大学受験失敗。新卒で入った職場での差別的な待遇。高校時代から起業までを振り返るだけでも、六本木さんの人生は決して平坦ではなかった。しかし六本木さんは、目の前にある仕事にいつもがむしゃらに取り組み、“たまたま”を“天職”へと変えていった。
「天職はどこかに用意されているものではありません。目の前の仕事に一生懸命取り組んだときに、それが天職になっていくのではないでしょうか」
異動やライフステージの変化によって、今までとは違う仕事や働き方を迫られ、「この仕事は自分に合わないのではないか」と悩む女性は多い。だが、訪れた機会をポジティブにとらえて真剣に取り組むことで、思いがけない道を開くことができる。それが天職となっていくのかもしれない。
 第2回は、経営者として多忙を極める中で4人のお子さんを育て上げた六本木さんの「ワーキングマザー哲学」をお伺いする。

六本木佳代子

群馬県生まれ。情報処理工学を学び、卒業後はSEとして勤務。退社後はフリーランスとして活躍後、株式会社ジー・エム・ケー、株式会社ジーニアスエンタープライジング、株式会社OPENERを設立。現在はOPENERの代表取締役会長。盛和塾にて稲盛和夫氏に学んだ人間学の知識や、10年以上にわたるシンガポール居住経験を生かし、枠にとらわれない経営を実践する。著書に、自社社員への「今日の言葉メール」をまとめた『ハート・オブ・マム――無償の愛が人を育む』がある。

文/横堀夏代 撮影/ヤマグチイッキ